マンガの感想

  
「ヒカルの碁」−子どもの社会化−

原作/ほったゆみ 漫画/小畑健 
監修/梅沢由香里プロ
「週刊少年ジャンプ」で連載された囲碁漫画。

全23巻
平成12年「第45回小学館漫画賞」受賞
 ヒカルの碁
(>日本棋院 囲碁公式ホームページ )
 TV東京公式サイト 
小中学生の間に囲碁ブームを巻き起こした作品。
碁がわからなくても面白く、ぐんぐん展開にひきつけられる。
「何がいったい面白いのか、何が私を惹き付けるのか」を考えるなら「何が描かれているのか」を考えるより、「ここには何が描かれていないか」を考える方が近道の場合がある。
で、ちょこっと考えてみる。

「何が描かれていないか」
もちろんそれはヒカルの父親。

居ないわけではないが、あくまでも画面には出てこない。サラリーマンらしく、ヒカルの母が出勤する夫にゴミ出しを頼む場面もあるが顔は出ない。プロ試験に受かったヒカルを祝う場面も社会の厳しさを諭す場面もない。コドモに無関心ではないが積極的には子育てに関わってこなかったという感じ。(今の日本の平均的なサラリーマンの父親像かこれは。)あくまでもストーリーには関わらないようにと描かれている。

それに対してヒカルのライバル(塔矢アキラ)の父親といったらその存在感はどうだろう。
ライバルの父親(=塔矢名人)はアキラが2歳のときから碁を教え、息子に対して毎朝一局碁を打つのが日課。小学校に入ったアキラは父が経営する碁会所に毎日碁を打ちに来る。経営するといっても実際の運営管理は他人に任せているので塔矢名人が碁会所に顔を出すことは滅多にないようだ。
 これは父親が息子を、自分がついていなくても一人で行動できる年齢になったとき、息子を信頼できる大人たちの中に置いたということか。
で、父親といえば思い出すのが星一徹。しかし塔矢名人は一徹のように自分の夢を息子に託すようなまねはしない。
自分の夢は自分で叶えるモノと考えているのか、実際に自分で叶えているわけだし、息子に後を継がせるといった期待をかけて碁を教えたわけでもないようだ。また、なんとなく父親から離れようと思う息子が家を出る前に、自分のほうから家を出て行ってしまった(アキラの母親も夫について出て行く)のもすごい。
これが自分の生き方を息子に押し付ける一徹型オヤジだったら、息子を家から追い出してナントカいう段位とかタイトルとかを取るまでは「家の敷居をまたがせない」と言いだすところだろう。塔矢名人はフットワークが軽く合理的思考の持ち主で子離れできてる父親だった。

父が経営する碁会所にはアキラは自分が行きたいから通ったのであって通うように強制されたわけではない。父親は息子が小6になったとき、息子に期待したいという意味のことを息子に表明しているが、それは決して押し付けがましいものではない。

アキラもヒカルも家族構成は父母と一人っ子で兄弟姉妹はなく、母親が専業主婦であることも経済的に不自由なく暮らしていることも同じ。北島マヤと姫川亜弓のような天と地ほどの差がない。違っているのは子供にかかわる父親がいるかどうかということ。
(私の知り合いのサラリーマンで毎朝30分〜1時間小学生の子供の勉強を見てあげてから出勤する父親がいるが、それはやはり今の世の中では珍しいほうの男性ではなかろうか)

アキラと出会ったときのヒカルは世間知らずの子どもだった。対してアキラのほうは父親と父親を通じて碁に関わる大人たちの間に身をおくことで、とっくに社会化されていた大人だった。

それでも年齢的には同じだったからアキラにはヒカルの幼い発想(名人になれば凄いお金が入ってくる等)が碁の世界をバカにしたものにしか見えなかったわけだ。

こう書くと「息子に対する父親の役割って大事だよね。ヒカルの父親って息子を社会化するという父親の役割を果たしてない」と言いたいように見えるが、そうではなく。

ヒカ碁を読んだ人なら誰でも、子どもを社会化するのは何も父親でなくていいんだ、ということに気がつくはず。
あんな姿で碁を打ちたいと塔矢名人の碁を打つ姿をカッコイイと思った時からヒカルの社会化が始まった。ヒカルが碁を打つこと,プロになりたいと思うことは大人の世界に入りたい,大人の世界に入る資格を持ちたいということで、その過程で、沢山の子どもや大人に出会う。

碁を打たなければ知り合うことのなかった沢山の大人たちの間で鍛えられ教えられ自分を試されることになり、勝つこと、負けたときの覚悟や作法を学ぶこと、他人と対峙すること、期待されること、責任を持つこと、他人との付き合い方etcを学んでいく。なんたって、「碁は大人の遊び」なのだからそれは当然の成り行きだったのか。

そういった、大人に助けられながら、子どもから大人の世界への階段をのぼる道筋のドキドキした緊張感や焦りや上手く行ったりいかなかった時の逡巡等がヒカルの成長のドラマとしての魅力の一つにほかならない。

コドモが大人になる過程での大人の係わりについて考えさせられる。
佐為の名前は psychology(サイコロジー)などの接頭語のpsy ココロとか精神とか魂といった意味なのかなと、遅れてきたファンは思う。

 04,9,26

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