このファイルは「姑獲鳥の夏」のネタバレを含みます







クライマックスシーン、なぜ、関口は「かあさん」と呼び、それによって事件が終結したのか

これは京ネコの掲示板で拝見した疑問ですが、自分も気になった部分だったので、少し考えてみた。京極夏彦ネットコミュニティ(現在リンク切れ)の掲示板での自分のカキコを少し直してここに転載します


関口がそう呼びかける前の場面で、京極堂が「そこにいるのは涼子さんでこの世のものなんだ」と言っているので、彼女に呼びかけるなら「涼子さん」のはずでは...と私は最初思った。

が、涼子が関口に赤ん坊を渡したとき、「故獲鳥はうぶめになった」という印象的な言葉があるので、やっぱりこれは「かあさん」でなくてはならないような気がする。

「故獲鳥はうぶめになった」とはどういうことか。
(余談/英訳される時は「UBUMEがubumeになった」と訳すのだろうか?)
「うぶめ」とひらがなにするだけで、私には、なにかこう、やさしい、かわいい響きに変わったように感じられる。
故獲鳥という字をよく見れば、姑息の「姑」、子どもをさらうという意味を連想させる「獲」と、「鳥」という獣を思わせる漢字。これがひらがなの「うぶめ」になると、もっと無力で別の意味の方が立ち現れてくるような感じがする。

いや、これは話が逆で、涼子が困ったような表情をしながら、(たぶん)おずおずと、赤ん坊を関口に託したときに、「うぶめ」というのは、そういうものだというふうに、私の「うぶめ」の語彙に対するイメージがそこで優しい何かに変換されたのだと思う。

もともと「故獲鳥(うぶめ)」は赤ん坊を攫う者なのか、赤ん坊を道行く人に託す者なのか、赤ん坊を産めなかった無念なのか特定されないイメージが錯綜しているという説明がされていたわけで。
 涼子は藤牧の「母様」という言葉で<久遠寺の母>というスイッチが入ったわけだけど、関口の「かあさん」という言葉で、なんといったらいいのか、涼子は<久遠寺の母>ではない別の「お母さん(うぶめ)」になった...のでは?
 (私はここで掲示板に「これは間違っても関口は涼子の母性本能といったものに呼びかけたのだ...とかいう意味ではない。母性本能というものはない」と書いたけど、これは「母性本能」という言葉が現在すごく手垢のついた言葉になってしまっているので使いたくなかっただけで、掲示板には「(関口君は彼女の)人間の母性に呼びかけたのでは」という表現をされた方がいましたが、これに反対してるのではないです。)

 関口の「かあさん」という言葉は、「(子どもを殺さない,折檻しない)かあさん」という意味だったのではないかとも思えた。



先に出した私の関口君に対する疑問に「関口君の何でも自分のせいにする性格」と云うレスを頂いてからつらつら思ったことは「それって虐待された幼い子どもが、子どもには全く落ち度がないにもかかわらず、虐待されるのは全て自分が悪いから。親はちっとも悪くない。と考えるのに似てるのではないか」ということだ。
 読み返すと、確かに彼が親から折檻を受けていたような示唆が織り込まれていた。

そういうところが、逆「投影」というか、自分の嫌な部分を相手に「投影」するのではなくて、その逆の、「少女がみだらであるはずがない(という思いこみ)」→「みだらだったのは自分(にちがいない。悪いのは自分)」のように自分に責任を転嫁するようなクセが関口君にあるようにも思える。

もちろんコレは関口君が日常的に「なんでも自分が悪い」という考え方をしてるというのではなくて、満潮のときは見えない岩礁が干潮の時は姿を見せるように、心の水位が下がっているときに発動する心の形、クセとでも云うものでは。(どこかいびつなのが他人事ではないので気になる)。(というのは話が逆で、私が彼を自分に引きつけて考えたいので、そういうふうに彼に自分を「投影」して見ているのでは...何を言いたいんだ私)

虐待される子どもには責任がない。(しかし実際には「育てやすい子」もいれば「育てにくい子」も確かにいる。これは私の思いこみとかいうものではナイ。) 一方で、子どもの言葉が「優しい(というか子どもを折檻しない)お母さん」を呼び出す場合も、「(子どもを折檻する)お母さん」を呼びだす場合もあるのではないかと思う。子どもに責任はなくても。
 幼い時の関口君は「(子どもを折檻する)かあさん」を呼んでしまいそうになるので、ちゃんと「かあさん」と呼べなかったのではないか。
ここまでくると、関口君に対する推察ではなく妄想になってくるので止めます。
こういったものが、自分の考え方感じ方です。長文失礼しました。

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(04,09,14)