子どものふりをする 子ども

                            名探偵コナンについての戯言
 
小学生・江戸川コナンは、見かけは子ども、頭脳は大人。
高校生名探偵・工藤新一が、謎の組織に毒薬を飲まされ小さくなった姿。
    (頭脳以外の細胞が子どもになったという設定)
     幼なじみの高校生・毛利蘭の家に居候して (蘭にコナンの正体は知られてはならない)難事件に挑む。水戸黄門のようなお約束のカタルシス。
    物語の主人公に投影された  「自分」 自身の姿として、コナンほどわかりやすいテキストはない。コナンは、それを見る小学生自身のメタファー。
でなければ、推理の意味もわからない子どもが毎週TVを見るはずがない。

    妙に醒めた小学生
    小学生のふりをしているが、精神年齢はずっと大人
周りの子どもにあわせて小学生することを 「やってらんねえー」とぼやく
しかし自分の正体を知られてはならないので、しぶしぶあわせる
周りの子どもに違和感を持たれないよう、けっこう気を使う
それでも時々「自分」が出てしまい、「変なやつー!」と言われる。 
彼は、「ふつうの子ども」を演じている子ども

コナンには、ジャイアン、スネオ、静ちゃんを模した3人の友達がいる
だからといって、「のび太」のようにいじめられたりはしない
「変わってる」と言われながらも、うまくやっている 
( 「のび太」 のように情けない存在ではない)
4人で少年探偵団をつくっている
(あ、灰原さんも入れて5人か)
コナンは「やれやれ」と思いながら、そこに加わっている
(コナンが結成したわけではない、念の為)

最近は、灰原さんという女性版のコナン( 同じように悪の組織によって身体を子どもにされた、本当は大人の女性)が加わった
彼女は同じ秘密を共有し、同じ言葉を話す仲間
周りの小学生には通じない言葉を話せる仲間…つまりオタク仲間かな

灰原さんはコナンを理解できる
しかしコナンに必要なのは、高校生の蘭
蘭を失ったら、コナンはもとの身体に戻る理由も失う

だから灰原さんはコナンの恋人にはなれない

コナンには「ドラえもん」のような頼れる守護天使はいない…いや、いる
老人で変な発明ばかりしているという天才科学者阿笠(あがさ)博士だ
博士はコナンと少年探偵団に便利なアイテムを提供してくれる
(これは大人社会と戦うための大人の力)
そうか、博士はアンパンマンにおけるジャムおじさんか

(アンパンマンの生みの親ジャムおじさんは、パン工場のパン職人にして天才発明家。「彼こそはバイキンマンの『悪の科学』に対抗しうる『正義の科学者』で、その技術レベルはバイキンマンをも凌駕する」という高田氏の言には泣けました (爆笑) アンパンマンは単純にして奥が深いのだ)

主人公  友達 援助者
     のび太       ジャイアン,スネオ,静  ドラえもん
     コナン      元太,光彦,歩美,灰原      阿笠博士
     アンパンマン       カレーパンマン,食パンマン 
     メロンパンナちゃん
ジャムおじさん

この3人の援助者のなかでは、阿笠博士が一番役割が小さい。博士自身がコナンのアイテムである。(事件を解決するとき、コナンは博士や毛利探偵の声と姿を借りて推理を披露する。)
ドラえもんに泣きつくのび太でもなく、アンパンチで敵をふっとばすアンパンマンでもなく、言葉で大人を追い詰める。
武器は自分の機知,観察力,推理力と、小学生の仲間。

しかしいつまでも子どもの身体にとどまってはいられない
(蘭をいつまでも待たすわけにいかない)
もとの身体に戻ることが、コナンの目的にして最終回。
コナンが元の姿に戻るには、APTX4869(コナンと灰原の身体を小さくした薬)を悪の組織から奪い、博士に成分を分析してもらって解毒剤の類をつくらなければならない。もちろんそのために、悪の組織(大人社会の隠喩)との対決は避けられない。
そのとき力になってくれるのは、たぶん少年探偵団の友達。

「コナン」にも、「魔法使いサリー」や「ウルトラセブン」のような法則が働くはずだ。「正体を知られたら、その世界にはいられない」という法則が。
( 「仮の姿」と いう魔法が解けるとでも言うのかな )
たぶんコナンは蘭にも話せない自分の正体を、自分がある意味で「子どもだ」と思って馬鹿にしていた友達3人に話さなければならなくなるのではないか。
悪の組織は子どもの姿のコナンを知らないから、囮になってもらうとか。
で、3人は荒唐無稽なコナンの話を信じるし、危険を承知で引き受けてくれるのではないか。そんなふうに予想したりしている。

コナンには、そういう手続きを踏んで、もとの姿にもどってもらいたい。
それは子ども時代との別れの手続きだから。
小学生の仲間3人が、コナンと納得のいく「さよなら」が迎えられるかどうかで、「コナン」の価値は決まると思う。
(ああ、私はかなり高田氏の言に毒されている(爆) )
だから、コナンには、感動の最終回を迎えてもらいたい。
それが、コナンの人気を支えた幼い視聴者に対する作り手の責任だと思う。


 

付記

「演じる」ということは否定的にとらえればいいシロモノではない。誰でもいろんな地位と役割を持ち、演じている。学生、先生,主婦,会社員 父親 息子 エトセトラ…。
病院で診察を受けるとき、よく知りもしない相手の前で裸身になれるのは、相手が「医者」だから。
相手が 「医者」 を演じていて、自分が 「患者」 を演じているから。
社会生活をしていくのに必要な仮面は、責任や役割の自覚と、「自分」をまもるためでもある。
(仮面が貼りついてしまっても困りものだが)

「子どもは子どもを演じている」なんて、今に始まった話ではないと言われた。(夫に…)
遠藤周作の「白い人黄色い人」の冒頭に、大人の望む「赤い鳥」(明治時代の良い子が主人公の童話集だっけ?)のような「良い子」を演じている自分を自覚している子どもの姿があるという。

でもそれは、大人に対して「良い子」を演じていたのではないか。
「コナン」では、子どもが子どもに対して「ふつうの子」を演じる構造がある。
自分と同じ社会の成員に対して自分は「同じ」であることを装わなければならないという事態は(そういうマンガが人気を博しているという点で)ちょっと考えなければいけないのかもしれない。

(…と、書きつつも、「そうかなあ」という気がする。コナンはのび太と違って、自分の力でうまくやっているから。)
(私も子どものときに、コナンのような「お手本」であり「仲間」であるヒーローがほしかった。
等身大でため息をつく「同業者」のコナンに会えた今の子どもがうらやましい。)
                                   99,4,17

k's page - 2