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幻の子ども 神の国再興計画 ? | ||
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人間の社会という汚濁に染めなければ、生まれたばかりの命が本来持っていた何か清らかなものが発現するにちがいないと、王様は考えたらしい。その実験台にされた赤ん坊は一人残らず育たなかった。本来、赤ん坊は養育者が自分に向ける表情を見、語りかける言葉を聞き、そしてそのありようをまねて育つのだが、その赤ん坊たちは誰かを「まねする(学ぶ)」ことが許されなかったのだ。 これはひょっとして、究極の「自分さがし」を強制された人間の末路の暗喩ではないのか。 「自分さがし」は90年代に出てきた言葉(イデオロギー)だが、具体的にどういう行動なのかまで私は考えたことがなかった。(私はその頃10代20代の若者でもなかったので、聞き流していた。)内田樹氏の「自分さがし」についての定義によると、それは外界の権威も歴史も古典も先達の教えといったものも何も顧みずに、ひたすら自分のなかの自分だけの井戸から可能性を探しなさいといった感じの、じつは反教育的なメッセージだという。(あくまでも内田氏の定義では) そういう「自分さがし」はやめたほうがいいよ、という「自分さがし」批判の内田ブログを読んで、外界からの人間的な働きかけを一切与えられずに育たなかった赤ん坊の話を思い出した次第。 ちなみに私が推測していた(あくまでも、ばくぜんと)「自分さがし」というのは、「野球でも卓球でも水泳でも将棋でも何でもいいからやってみなよ、やってみないことには自分が何を好きだと感じるのか、何が出来るのか、得てなのか不得手なのかわからないよ、『泳げるようになるまでプールには入らない』なんてことはやめなよ」という感じで10代に向けて「自分を知るために何でもやってみよう」というメッセージみたいなものだと思っていた。(私自身がそういうふうに誰かに言ってもらいたかったわけだ。) |
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付記 あとで逆検索してわかったが、「赤ん坊実験 言葉」で検索するといろいろ出てくる。 その中の一つhttp://pic-com.jp/04_communication.htm によると、「子育ての大脳生理学」 (朝日選書)に 13世紀のシシリー王、フレデリック二世の行った話として紹介されてるようだ。 |
2010/12/29